春霞の伊豆が岳
投稿者:おーちゃん
弥生三月、暖かいハイキング日和、秩父の最高気温は18.8度、春霞の中の山行となりました。ただし翌月曜日は北風ビュービュー、秩父の気温は11.5/1.8(最高/最低)。私たちのバスが秩父に入って見えた武甲山の切出しの崖には週初めの南岸低気圧がもたらした雪が白く残っていました。三月は800mの低山といえど、山頂北面の登山道には残雪があるかもしれないと心配しましたが、樹林で日陰になった五輪山の頂上に土俵の大きさ程度のシャーベットが残っていただけで幸いでした。軽アイゼンの携行も検討事項です
私達が正丸駅から21人で出発した時、大き目のザックを背負った25人規模の高校山岳部と並列になりました。「卒業、大学の選択は大変だったろうね」と聞くと、「(4年間の)その後を、どう生きるかが問題です」との立派な返答。チャラチャラした世相に背を向けて、「人の一生は重荷を背負うて遠き道をいくが如し」の様相の山岳高校生にうれしくなりました。伊豆ケ岳の山名は、地元飯能市の「飯能市史」によると、東麓の「畑井」集落の「伊豆山大権現」に由来するそうです(実物未確認)。国内多くの山名は明治初期、国土地理院の前身である内務省地理寮によって決められましたが、その際地元の意見が多く採用されたそうで、背景には内地戦では地元の人の地理情報が命綱という切迫した状況があったと推測します。「八甲田山死の彷徨」では猛吹雪の中、軍隊を引率して峠を越える地元の農婦が描かれていました。頼朝が崇敬した「伊豆山権現」が、鎌倉幕府を支えた「武蔵七党」の地に勧請されたのでしょう。江戸期、地元の人の信仰は、麓の寺社と山体・山頂に結びついており、自然と山名の多くは信仰対象の名称そのもので、明治初期につながっていったと思われます。 (諸説あります)